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昨今は「トラウマ」がよく取沙汰されますね。

「〇〇トラウマ」や「トラウマ専門治療」なんかもよく目にします。

私が心理学を勉強し始めたころは、トラウマはこんな身近な単語ではなくて、犯罪級の事件に巻き込まれたり、災害にあってしまったり…というまさにほんの一握りの人しか経験しない「突発的な」出来事だという認識がありました。

そのためか、今はかなり身近に感じられる「トラウマ」の存在も、私の中の違和感を緩和するために、「トラウマ的な出来事」とか「トラウマに近い出来事」とか命名して話していることが多いな…と思っています。

おそらく、時代に即して、もう「なんらかの傷つき体験」=「トラウマ」と呼んでいいのだろうと思うのですが、三つ子の魂百まで…ですね^^


さて、どう名付けをするかが大事なのではなく、人にはどうしても「忘れられない嫌な記憶」があります。


不思議と「良い記憶」よりも「嫌な記憶」の方が覚えてると思いませんか?


良い記憶をたくさん持っている人もいますが、そういう人って、小さい時から「良い記憶」「良い思い出」について振り返ったり語ったりを訓練されている(話すように期待されている)人ではないかなと思います。


多くの人は、「良い記憶」よりも「嫌な記憶」をよく覚えています。


「嫌な記憶」は次に同じような事態に合わないために、そこから「学習」し、「予防」できるように常に警戒できるために記憶に留める…

最初はこういう動物的な警戒反応から記憶しているのだと思います。


でも、人ってそうした対策が完璧にとれるようになっても、そうした危機管理が必要のない環境に身をおける状況になっているにも関わらず、こうした「嫌な記憶」が忘れられないと思いませんか?


そもそも、危険回避システムを構築するためには、こうした知識としての記憶は忘れない方が良いはずなのに、私たちの中に「嫌な記憶は忘れるべき」「忘れた方がいい」と思っているところがあります。

これは、トラウマ経験をした本人もそうですし、周囲の人も「早く忘れた方がいい」と思っているのです。


「早く忘れた方が幸せになれる」

「忘れたら、トラウマを乗り越えたことになる」

そんな風に思っているフシがあるようです。


でも、人は「嫌な記憶を忘れません」

これはなぜでしょう?

こんなに苦しいし、思い出して良いことも、それが必要なほど危険な環境でもないのに…。


人がおぼえておきたいのは、「嫌な体験」そのものやその時の感情ではなく、「そうした体験をすることで傷ついた私の存在や経験」なのではないかと思うのです。


トラウマ治療でトラウマそのものを取り扱う治療もあります。

トラウマからの時間や、おかれている環境がどのくらい危機感があるかにもよるので、そうした治療が必要だったり役に立つこともあることは承知の上で…。

そうした時期を超えても抱え続ける記憶には、

「そうした経験をした私をなかったことにしたくない」という意味が込められているのではないかと思うのです。


一生モノの傷つきを感じた私は、その現実を「生き続ける」ことに必死だったはずです。

そのことには、ものすごいエネルギーや努力を費やしたはずなのです。

そして、トラウマ記憶として抱え続けているのであれば、その努力をひとりで人知れずおこなってきたのであり、誰かに伝えることも見せることもなく実践してきたのでしょう。

それを断片的に誰かに伝えても、大変だったね、辛かったね、もう大丈夫だよ、早く忘れた方がいいよ…等々、「過去のこと」として扱われてしまうことが多いのです。


そうじゃない・・・


トラウマの内容は忘れてしまいたいできごとだけれど、それに”苦しみ耐えがんばった私”は残しておきたいのです。

だって、その苦しみに耐えたから今の私ができあがっているわけで、今さらまっさらな私に生まれ変わるわけではないという厳然たる事実を目の前にしているのだから。

常に目の前に、そうした体験からできあがった私をいつも見ているのに、それを作り上げた過去のできごとを忘れるなんて、魔法でもない限り難しいですよね。

トラウマを引きずっている…と表現する方々には、この「できごと」そのものと「その体験を頑張って耐えた私」の存在がごっちゃになったままになってしまっていることが多いような気がします。


私は「トラウマ治療」を専門にしていません。

だからといって、トラウマを扱わないわけではありません。

急性期のものはやはり専門の方や医療機関できちんと対応した方が良いと思います。

そうした時期であり、専門でない私が取り扱いきれない場合は、まずはそちらの対応に専念した方がいいこと、その対応が終わったら、ぜひ帰ってきて頂きたいこと…を伝えています。

通常のカウンセリングの中では、トラウマの記憶は出てきたらそれなりに扱います。

ただ、それを根掘り葉掘り詳しく聞いて、その時の感情を生々しく思い出してもらうことを促したりはしないな…と思います。

クライエントさんの話せる範囲に任せています。

大事にしているのは、そうした経験をした私をクライエントさん自身が認めてあげること、その過去を生き抜いた私を「よくやったね」とほめてあげられることを目指すことです。


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その経験をしたから強くなったとは言いたくないけれど、その経験を乗り切った私はそのことを一番よく知っている”私”に褒めたたえられるべきだし、私の一番の味方として信用されるべきなのです。


一番近いところにいすぎて、自分のことを自分が一番信用できなくなってしまっていることが多く、ますます辛く、ひとりぼっちな心もとなさに苦しんでしまいます。


「私がしっかりしていれば、もっと気をつけていれば、そうした事態を避けられたはず」と思うことも珍しくありません。


当時、あなたに「びっくりしたよね」「大変だったよね」「逃げたかったよね」と声をかけてくれる人はいなかったかも知れないけれど、大人として成長した私がこの言葉を当時の私にかけられるようになるといいなと思うのです。



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この作業をカウンセリングの中で丁寧にやっていくと、

「いや、私本当によくやりましたよね、偉いですね」ってクライエントさん自身がおっしゃったりします。

御本人が言えなかったら、

私が言います^^

嫌な記憶そのものがどれだけひどいか、大変だったかということを特定するのではなく、それを切り抜けてきた「自分」の力に自信を持ち、信用していけるようにする。

そうして、「今の自分」を信用できるようになる。


その時、「嫌な記憶」は忘れないけど、「過去の記憶」という居場所を作ってあげれるのかなと思っています。


「嫌な記憶」忘れるべきでしょうか?



 
 
 

正直に言うと私にとってカウンセリングとは、決して「かっこいい仕事」でも「スマートな技法」だけで成り立つものでもないと思っています。

もちろん、理論や技術はカウンセリングを行う上で大事だとは思います。

学んできた知識もあります。

でも、それだけで人の心に触れようとするのは正直甘いのかなと思います。

もっと言えば、そんな“頭でっかち”な姿勢はクライエントさんにすぐに見透かされてしまいます。

私にとってのカウンセリングは、どれだけ自分の「心の揺れ」に正直でいられるか、ということがすごく大事だと考えています。


目の前にいるクライエントさんは、困難を抱え苦しみ、戸惑い、怒りや悲しみに沈んでいる。その思いや言葉に触れたとき、自分の心がまったく動かなかったとしたら……私はその瞬間、カウンセラーとして生きていくことは難しくなると思っています。



人の心に触れるとは、自分の心も一緒に揺さぶられるってことなんだと思います。こちらの心も痛いし、重たい。

だからしんどい時もある。

だけど、だからこそ、そこでしか生まれない「関係」がある。

私はその瞬間を信じて、この仕事をやっています。


ただ、こうやって人の話を聴く仕事をしていると、自分の心がどれだけ安定しているかが本当に大事になってくるのです。

というのも、自分の中がグラグラしてると、こちらが何も言わなくても、その不安定さってクライエントさんに伝わってしまうんですよね。

本当に微細な空気感で伝わる。


だから、普段から自分のメンタルを整える努力は欠かせません。

睡眠、食事、運動……って、言葉にするとすごく地味だけど、結局そこなんです。


でも、それだけじゃ足りなくて、

「今の自分の心はどうなってる?」って、

常に自分に問いかけ続けています。


これが習慣になったのは、大学院に入ってカウンセリングのトレーニングを受け始めてからです。

それまでは、自分の感情なんてほとんど無視していました。

「勝つか負けるか」「得か損か」みたいな判断軸でばっかりで生きていて、感情は無視して結果が全てでした。そのため常に結果に振り回されて疲弊していました。

眠くてしょうがない朝は学校や職場、社会をも憎んで腹を立てていました。


でも、今は違います。自分の中で何が起きているかに気づくこと、それを無視しないことを日々続けて行くと、結果や損得に一喜一憂して振り回されるのではなく、日々の自分の気持ちやそのプロセスを大切にすることができるようになりました。

それはカウンセラーとしての私の土台になっています。


たとえば朝起きたときに、「あ〜だるいな…」って感じるとする。

その時、以前の私なら「うわ、最悪」と絶望感でいっぱいになるか、「気合で乗り切れ!」と無理矢理どうにかしようとしてどうにもならず、常にイライラしていました。


今はそうではなく、「なんで今、自分はそう感じてるんだろう?」って、一歩引いて考えるようにしてます。

昨日、筋トレやりすぎた?

気圧の変化?

仕事へのプレッシャー?

…そうやって、一つひとつ原因を探していくんです。

これ、めんどくさいし正直しんどいです。

考えるのを止めて二度寝したくなります。

でも、こういう地道な作業を重ねないと、自分の心を丁寧に扱えないし、他人の心にも丁寧には触れられないって痛感しています。

そして、この方法は日々のストレスを減少させ生きていきやすくなるコツだと思っています。


自分の心に鈍感だと、人の小さな心の動きにも気づけない。

逆に、自分の心の波に敏感になっておくと、クライエントさんの表情の変化とか、言葉にされない「空気」にも気づけるようになる。

そこから生まれる関係って、ほんとに深いんです。



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私にとってカウンセリングとは、「クライエントさんと共にある」こと。

そして「自分自身とも共にある」こと。

どちらか一方が欠けたら成り立たない。

目の前の一人ひとりと、“今ここ”で、まっすぐに向き合う。毎回が真剣勝負で、一瞬でも気が抜けない。たまに緊張感に疲れたな、と思う時もあります。


だからこそ、やりがいがある。


日々クライアントさんと今を共有させていただきながら、カウンセラーとして今を生きています。



 
 
 

夏つながりで、もうひとつ。

今年の夏は、私にとって特別な挑戦の季節です。

ロールシャッハ・テストの研修に参加する予定で、専門的なスキルをさらに深めるつもりです。この研修では、単に技術を学ぶだけでなく、心理検査の奥深さや人間理解の新たな視点を得ることができると楽しみにしています。


ロールシャッハ・テストの魅力


心理検査
心理検査

心理検査の1つであるロールシャッハテストは、投影法心理検査であり、分析や解釈には専門的なトレーニングが必要な検査です。当オフィスでも受検できるので、習得すべく研修に参加する予定なのですが、今から楽しみでわくわくしています。ロールシャッハ・テストは、投影法心理検査の中でも特に奥深いものです。インクの染みが何に見えるかというシンプルな問いかけから、その人の性格や行動、対人関係を探ることができます。この検査を通じて、クライアントの内面に寄り添い、より深い理解を得ることができると期待しています。



自分自身の気づき


入職してすぐに、私も実際にロールシャッハ・テストを受検してみました。

カードに描かれたインクの染みが何に見えるかということから、その人の性格や行動、対人関係などを理解する検査だと言われていますが、何がどんな風にわかるかは、私もまだお預け状態です。どうせなら自分で分析して解釈しようと思っています。


検査を受けた体験だけでも、ちょっとした気づきがありました。

本来は自由に見えたものを言っていくのですが、私は「ちゃんとした答えをしなければ」と考えすぎてしまい、「自由に答えられなかった…」とモヤモヤが残りました。

自由にするということの難しさを感じましたし、気付いたら「ちゃんとしなきゃ」と自分を縛っていたこと、自分を不自由にしているのが自分自身なんだということも気づきました。

こんなところでも、じぶんの「やり方の癖」がわかるんですね


心理検査は、私たち自身を理解するための「取扱説明書」のようなものです。新しい自分を発見するというよりも、今の自分をより深く知るための手助けとなります。

勉強していく中で、新たな発見やわかることが増えることに、今から楽しみですです。


心理検査とカウンセリングで、より「私」を身近なものに、私自身と仲良くなっていけるといいと思います。



担当する時間が増えました♪

オフィスの様子
オフィスの様子

7月からオフィスへの勤務曜日が増えて、日曜、月曜、金曜の週3日になります。

暑い夏が始まりましたが、オフィスは緑に囲まれたとても爽やかな環境で、安心して心地よくお話しすることができると思います。

どうぞよろしくお願いいたします。


担当カウンセラー
担当カウンセラー

 
 
 

東京カウンセリングオフィスつむぎ(中央区日本橋)

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