- kasugaimidori
- 9月8日
- 読了時間: 6分
昨今は「トラウマ」がよく取沙汰されますね。
「〇〇トラウマ」や「トラウマ専門治療」なんかもよく目にします。
私が心理学を勉強し始めたころは、トラウマはこんな身近な単語ではなくて、犯罪級の事件に巻き込まれたり、災害にあってしまったり…というまさにほんの一握りの人しか経験しない「突発的な」出来事だという認識がありました。
そのためか、今はかなり身近に感じられる「トラウマ」の存在も、私の中の違和感を緩和するために、「トラウマ的な出来事」とか「トラウマに近い出来事」とか命名して話していることが多いな…と思っています。
おそらく、時代に即して、もう「なんらかの傷つき体験」=「トラウマ」と呼んでいいのだろうと思うのですが、三つ子の魂百まで…ですね^^
さて、どう名付けをするかが大事なのではなく、人にはどうしても「忘れられない嫌な記憶」があります。
不思議と「良い記憶」よりも「嫌な記憶」の方が覚えてると思いませんか?
良い記憶をたくさん持っている人もいますが、そういう人って、小さい時から「良い記憶」「良い思い出」について振り返ったり語ったりを訓練されている(話すように期待されている)人ではないかなと思います。
多くの人は、「良い記憶」よりも「嫌な記憶」をよく覚えています。
「嫌な記憶」は次に同じような事態に合わないために、そこから「学習」し、「予防」できるように常に警戒できるために記憶に留める…
最初はこういう動物的な警戒反応から記憶しているのだと思います。
でも、人ってそうした対策が完璧にとれるようになっても、そうした危機管理が必要のない環境に身をおける状況になっているにも関わらず、こうした「嫌な記憶」が忘れられないと思いませんか?
そもそも、危険回避システムを構築するためには、こうした知識としての記憶は忘れない方が良いはずなのに、私たちの中に「嫌な記憶は忘れるべき」「忘れた方がいい」と思っているところがあります。
これは、トラウマ経験をした本人もそうですし、周囲の人も「早く忘れた方がいい」と思っているのです。
「早く忘れた方が幸せになれる」
「忘れたら、トラウマを乗り越えたことになる」
そんな風に思っているフシがあるようです。
でも、人は「嫌な記憶を忘れません」
これはなぜでしょう?
こんなに苦しいし、思い出して良いことも、それが必要なほど危険な環境でもないのに…。
人がおぼえておきたいのは、「嫌な体験」そのものやその時の感情ではなく、「そうした体験をすることで傷ついた私の存在や経験」なのではないかと思うのです。
トラウマ治療でトラウマそのものを取り扱う治療もあります。
トラウマからの時間や、おかれている環境がどのくらい危機感があるかにもよるので、そうした治療が必要だったり役に立つこともあることは承知の上で…。
そうした時期を超えても抱え続ける記憶には、
「そうした経験をした私をなかったことにしたくない」という意味が込められているのではないかと思うのです。
一生モノの傷つきを感じた私は、その現実を「生き続ける」ことに必死だったはずです。
そのことには、ものすごいエネルギーや努力を費やしたはずなのです。
そして、トラウマ記憶として抱え続けているのであれば、その努力をひとりで人知れずおこなってきたのであり、誰かに伝えることも見せることもなく実践してきたのでしょう。
それを断片的に誰かに伝えても、大変だったね、辛かったね、もう大丈夫だよ、早く忘れた方がいいよ…等々、「過去のこと」として扱われてしまうことが多いのです。
そうじゃない・・・
トラウマの内容は忘れてしまいたいできごとだけれど、それに”苦しみ耐えがんばった私”は残しておきたいのです。
だって、その苦しみに耐えたから今の私ができあがっているわけで、今さらまっさらな私に生まれ変わるわけではないという厳然たる事実を目の前にしているのだから。
常に目の前に、そうした体験からできあがった私をいつも見ているのに、それを作り上げた過去のできごとを忘れるなんて、魔法でもない限り難しいですよね。
トラウマを引きずっている…と表現する方々には、この「できごと」そのものと「その体験を頑張って耐えた私」の存在がごっちゃになったままになってしまっていることが多いような気がします。
私は「トラウマ治療」を専門にしていません。
だからといって、トラウマを扱わないわけではありません。
急性期のものはやはり専門の方や医療機関できちんと対応した方が良いと思います。
そうした時期であり、専門でない私が取り扱いきれない場合は、まずはそちらの対応に専念した方がいいこと、その対応が終わったら、ぜひ帰ってきて頂きたいこと…を伝えています。
通常のカウンセリングの中では、トラウマの記憶は出てきたらそれなりに扱います。
ただ、それを根掘り葉掘り詳しく聞いて、その時の感情を生々しく思い出してもらうことを促したりはしないな…と思います。
クライエントさんの話せる範囲に任せています。
大事にしているのは、そうした経験をした私をクライエントさん自身が認めてあげること、その過去を生き抜いた私を「よくやったね」とほめてあげられることを目指すことです。

その経験をしたから強くなったとは言いたくないけれど、その経験を乗り切った私はそのことを一番よく知っている”私”に褒めたたえられるべきだし、私の一番の味方として信用されるべきなのです。
一番近いところにいすぎて、自分のことを自分が一番信用できなくなってしまっていることが多く、ますます辛く、ひとりぼっちな心もとなさに苦しんでしまいます。
「私がしっかりしていれば、もっと気をつけていれば、そうした事態を避けられたはず」と思うことも珍しくありません。
当時、あなたに「びっくりしたよね」「大変だったよね」「逃げたかったよね」と声をかけてくれる人はいなかったかも知れないけれど、大人として成長した私がこの言葉を当時の私にかけられるようになるといいなと思うのです。

この作業をカウンセリングの中で丁寧にやっていくと、
「いや、私本当によくやりましたよね、偉いですね」ってクライエントさん自身がおっしゃったりします。
御本人が言えなかったら、
私が言います^^
嫌な記憶そのものがどれだけひどいか、大変だったかということを特定するのではなく、それを切り抜けてきた「自分」の力に自信を持ち、信用していけるようにする。
そうして、「今の自分」を信用できるようになる。
その時、「嫌な記憶」は忘れないけど、「過去の記憶」という居場所を作ってあげれるのかなと思っています。
「嫌な記憶」忘れるべきでしょうか?







