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kasugaimidori

家事をめぐる夫婦の論争は昔から繰り広げられています。

「家事は女性がするもの」という固定観念が崩れ始めた平成・令和と時代を経て、昭和の子ども時代を生きてきた私からすると、ずいぶんと男性が家事に参加するようになったなぁと感じます。


それでも、妻側の夫への不満は消えません。

むしろ、「やってはくれるけど」「ありがたいとは思うけど」、何か釈然としない不満が積み重なっていくようです。

いっそのこと、全くやらない「昭和のお父さん」の方が、ママ友同士で不満も文句も言えてすっきりするくらいです。


夫側はどんな風に家事に参加しているでしょうか。

家事を細かく分類して分担を決める、家事をビジネスタスクと捉えるタイプ。

気づいた方が好きな時間にやればいい、一人暮らしに慣れている気ままタイプ。

好きな家事を好きな方が担当すればいい、家事を趣味と捉えているタイプ。


家事の参加の仕方も様々ですが、夫側の参加の仕方を聞いていると、妻側との根本的なずれに気づきます。

家事が「今すぐやらないといけないもの」ではなく、「後回しになってもいいもの」になっている点です。

家事が是非物になっていないという夫の感覚が、妻側とはどうしても相容れいないことになっているのです。

夫にとって、家事は生きることに直結する是非物になっていないのです。

むしろ、生活を快適にするための「オプション」であり、妻がそれをきちんとこなしてくれることは、「夫を大切にしてくれている」ことであり、夫がそれを「手伝う」ことは、「妻を大切にして、いたわっている」ことになるのです。


一方、妻の感覚としては、自分がやらなければ誰もやってくれるあてのない「最後の砦」的な役割を常に負わされています。

誰かを大切にしたい、誰かの生活を豊かにしたいという思いを感じる以前に、「今やらないといけない必須のもので、後回しにできないもの」という切迫したものなのです。


家事は「やらないといけない仕事」とは性質が違います。

仕事は、「とりあえず置いておくこと」ができるし、「〆切」があるので、その〆切に合わせて、計画的に実行するという調整が可能です。

家事は、1日の中ではその調整が可能なこともありますが、基本的には毎日毎日繰り返され、やらなければその結果が積みあがりますし(部屋が汚い、洗濯物が溜まる、洗い物が溜まるなど)、どんなにやっても成果は積みあががらず、翌日にはまた今すぐやらないといけないものに追われることになるのです。

まさに毎日「こなす」ものなのです。


家事を報酬制にしたり、成果制にしたり、いろいろ試してきた家庭も多いでしょうが、大前提のこの家事に対する「必須性」が違うので、夫はたくさんの家事をこなしていても、「手伝ってる」という感覚から抜け出せないし、妻は「どんなに夫が手伝ってくれても逃れられない責任」から解放されないのかもしれません。


家事の話なので、もっと身近な例をあげてみたいと思います。

例えば洗濯について、


【妻】

洗濯がたまってきたし、明日洗濯をしよう

→前日に洗濯機に洗濯物と洗剤を投入して予約設定

→朝仕上がってる洗濯を取り出し干す

→洗濯機の蓋を開けて湿気がこもらないようにする

→外出前に天気をチェック。外出していても、天気が急変しないかを気にする。もし外出先で雨が降ってきたら、在宅している人に連絡をして取り込んでもらうように依頼。

→帰宅後、洗濯を取り込み、たたむ。

→洗濯物を次に取り出しやすいように仕分けしてしまう。


【夫】

明日着ようと思っている服がなかったから、洗濯をしよう。

→洗濯機に洗濯物と洗剤を投入して洗濯する

→気づいたら、洗濯を取り出し干す

→帰宅後、取り込んでたたむ。雨に濡れてたら、洗い直し。


妻側の意識が連続的なのがわかるでしょうか?

明日の家事を増やさないために前日から日中まで家事に対しての意識が連続的なのです。

一方で夫側は、意識が家事をしている時に集中しています。

妻側からすると、洗濯をするなら、前日から計画して欲しいし、干したのなら取り込むところまで責任持って欲しいし、洗濯機の蓋も開けておいて欲しい、取り込むだけでなくたたんで閉まって欲しいわけです。

だから、素直に「やってくれてありがとう」と言いづらく、”感謝を演技しつつ、しりぬぐいをこっそりしないといけないなら、自分でやった方がいいな”と思ってしまうのです。


夫側は、せっかくやってあげたのに、満足するような御礼もないし、蓋を閉めておいたからと言ってすぐにカビが生えるわけでもないのに、小さいことで文句を言われる。

雨が降ったのは自分のせいじゃないのに、なんで洗濯を干してるって連絡をくれなかったのかと責められる。明日着るんだから、たたまなくてもしまわなくてもいいじゃないかと反論したくなるわけです。


もうひとつ、子どもの世話と家事は密接な関係があります。よく子どもの世話が大変で家事がこなせないとイライラする妻に、家事代行やベビーシッターを提案することがあります。もちろん、こうした外注ができるようになったのは、大きな進歩だと思います。

でも、実際に利用された方は感じることがあるかもしれませんが、こうした外注は、子どものお世話も家事もビジネスとして「単位」で考えるため、連続した家事の視点でのサービスが乗せづらいところがあります。

夫の家事参加の仕方と似ているので、結局利用しづらく利用を諦めるか割り切って単位として利用するか…になっているかと思います。

もちろん、仕事をしてくれる方が「連続」視点を持っていることは多いので、規約にはないちょっとした「心遣い」は夫よりも満足のいくサービスになるかも知れませんが。


妻側には、お腹に子どもを宿した時点から、デフォルトで「子どもの命を守る」というミッションが与えられています。これは子どもが自分とは別の個体となっても、変わることはありませんし、身から離れたことでますます目を離せない状態でこのミッションをこなさいといけないと感じます。

「子どもの命を守る」その前提として、「子どもの健康を維持する」ミッションと家事は密接に絡み合います。

自分ひとりなら、ちょっとほこりが溜まっても、物が床に落ちていても、ゴミが溜まっていても、洗濯物が溜まっても、お風呂の掃除ができていなくても、1日くらいご飯が菓子パン1個でも…死ぬ心配はありません。

でも、子どもがいると、小さければ小さいほど、どれも「死」に直結するわけです。

床に落ちたものは子どもの口に入る可能性がありますし、ほこりもゴミも手について舐めてしまうでしょう。ゴミも楽しんで口に入れてしまうかも知れないし、すぐに服は汚れるので、洗濯しないと着るものがなくなり、汚れも落ちなくなります。お風呂は毎日入らないと皮膚炎になるし、かぶれて掻いてバイキンが入ると熱を出したりします。子どもの胃は小さいので、こまめに食事が必要ですし、少しも待つことができません。

家事はより「今すぐ実行しなければいけないもの」になります。


そんな切迫した「命を守る」作業と家事はつながっているので、家事は「命を守る作業」になるわけです。

だから、気づいたらやればいいとか、得意な方がやればいいとか、好きな方がやればいいとか、置いておいてくれればやるとか、「最終的には誰かがやるだろう」という前提の感覚がある発言は、「私がやらないと誰もやらない。この子の健康や命が守られない」という切迫感のある妻の気持ちを追い詰めてしまいます。

「結局、命に関わる切迫した感覚を持ってはくれていない」と絶望してしまうのです。妻に怒るエネルギーがあるうちは、まだいいような気もしますが。


では、どうすればいいのでしょうか?

ここまで読んでいただいたのに申し訳ないのですが、このお話では、”こうすればいい”という答えを用意していません。

”相手がこういう流れでこう考えている”ということを"わかろうとする"こと、自分が”こう考えている”を前提を、いきさつや流れを含めて相手にわかるように丁寧に説明することが大事だと思っています。

このお互いに”相手の考えを理解しようとしていること”が、何かひとつの解決策を出すことよりも大事なことになるのです。

家事は毎日のことであり、終わりのない作業です。

1度こうすると決めても、生活パターンや働き方の変化、年齢によっても、あり方が変わっていきます。

ですから、答えは1つになり得ないのです。


自分とは違うけれど相手の考え方や捉え方を理解している、理解されていることが、先々をどうしていくかの前向きな展開が期待できます。

もっと言えば、最終的にお互いの考えを理解できることはないかもしれないです。

理屈ではわかっても、気持ちではわかりたくない部分もあるかもしれません。

それでも、「わかろうとする」気持ちがあることは、夫婦にとっての大事な支えになっていくでしょう。

結果的に、夫が完璧に家事がこなせるようになることもあるでしょうし、何をやっても連続性のない「点」の家事かもしれません。

でも、「ああ、こういう風に考えているのか」と理解がされていると、そこに「悪気」も「いじわる」も「思いやりが足りない」わけでもないことは伝わります。

妻が気になる「家事=暇な人がやる=下のものがやる」と思われているのではないかという疑いも、夫から「わかろう」とされていると感じると、そうではないことがわかります。


家事をめぐる夫婦の論争は、違う土俵にいることがわかっているのに、お互いに自分の土俵で相撲を取ろうとすることに似ています。お互い相手の土俵に行けば、負けてしまうことがわかっているし、その土俵に上がっても、自分の土俵に戻ってこないといけないことも分かっています。それなら、自分が行くのではなく、相手に上がってきて欲しいわけです。夫婦がこの土俵争いでにらみ合いをしていると、ふつふつと不満ばかりが募っていってしまうことになりかねません。

お互いの土俵がどこにあり、どんな広さでどんな高さで、どんな素材でできていて、どんな居心地の良さや悪さなのかを、知っていることが大事なのではないかと思うのです。


家事はとても流動的で不毛で生きるために絶対に大事なものでもあります。

連続性でとらえる必要もあるし、時に点で考えることも必要なのです。

どちらも適宜利用することで、その不毛さを乗り切れたり、意味を見い出したりできます。なんせ家事のやっかいなことは、「休むことができない」ことです。

そして、この家事が安定的に維持されている毎日が、人の心の居場所を作り上げていくのです。「毎日続けていくこと」を乗り切るには、責任感の強さもいい加減さも両方使い分けていく必要があるのです。妻の考え方も夫の考え方も使いわけていかないと、乗り切れないわけです。どちらかに決めるよりも、両方を使い分けていく方がうまくいくはずですよね…。でも、ふたりがその前提を理解しようとしていないと、うまく使い分けも協力もできないのです。


だから、まず妻が、夫が、どんな風に家事のことを捉えているのか、聞いてみて下さい、考えてみて下さい。

そこには、その人の生い立ちが関係しています。

どんな家庭で育ったかは、その人の「家事観」を決めていきます。

長い年月をかけて培った価値観なので、そこは確固としています。

変えられそうにないな…と絶望したり諦めたりするかもしれません。

でも、人ってきちんと自分の視点や価値観を理解されたり、理解したいと心を寄せてもらうと、相手にも理解を示せるようになります。


今までのことをお互いに理解したら、これからのふたりの家庭の価値観について、家事観について、初めて築き始めることができるのだと思います。

これまでの人生を否定せずに、それを参考にこれからのことを考える。


簡単なようで、けっこう難しいです。

いや、難しいようで、やることは簡単です^^


「ねえ、どう考えてるの?」・・・と聞いてみましょう。



*なるべく妻側・夫側それぞれに寄り添って書こうと思ましたが…女性側視点が強くなってしまっています…ね。ご容赦ください!

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私はずっと「子どものカウンセリングをやりたい…」と希望していました。

私の心理学との出会いは発達心理学から始まっていますし、大学院に付属している相談室は教育学部の施設だったので、プレイセラピーができる状態でした。

それでも、実習の中で実際に子どもと関われる機会はなかなかなく、ずっと憧れ的なものだったような気がします。

子どもとカウンセリングしたいという思いは、できるだけ早期に関われば関わるほど、しんどさが複雑化していないだろう、早く絡まった糸をほぐせば、その後の長い人生が生き生きと過ごせるだろう…という単純な思いでした。

単純に、子どもは素直に反応してくれるというのもあります。


それでも、今よりも実習先や行けるアルバイト先に限りも出会いの機会も少ない時代。

子どもに関わる機会は少ないままでした。

個人的な事情から、ひとところにとどまって臨床の仕事をすることが難しかった私には、子どもに関わる仕事に就くのはとても難しいのが現状でした。


大学院を卒業するにあたって、指導教官にそうした希望を伝えたことがあります。

たぶん、そうした仕事にすぐに就けない現状のこともぼやいたと思います。

その時、先生は「子どもを扱うにはまず、大人を扱えることが大事」と教えてくれました。

その当時は、その意味を本当には理解できていなかったと思いますが、その言葉が支えになって、その時できる臨床をなんでもやっていた気がします。


臨床歴も20年を超えましたが、結局、子どものカウンセリング!と呼べる未来にはなりませんでした。

でも、今は子どもの臨床をやるのであれば、まず大人の臨床から!というのは骨身に感じています。結局、子どもに何らかのトラブル・不具合・身体化が出ていても、その子自身だけに関わっていても良くはなりませんし、良くなったとしても、また悪くなったり、別の症状や形で表現されるだけだったりします。

まずはその子自身を取り巻く「大人」から話を聞き、大人の方に子どもを支えていくだけの力があるかどうか、環境が崩れていないかどうか、関係性がこじれてしまっていないかどうかを丁寧に確認していくことが、最優先事項になります。

遠回りなようで、お子さん自身を元気にするには、周りから整えていかないといけないし、逆に周りを整えると、あっさりお子さんは良くなって自分の力で成長するようになります。


スクールカウンセラーをする機会が何度かありましたが、お子さんと関わると、私はすぐに「この子のお母さんに会いたいな~」と思います。もちろんお父さんでもおばあちゃんでもいいのですが、この子の傍にいる時間の長い「大人」に会いたいと思うのです。

この子がしんどくなる理由は、きっと大人の事情が絡まってるんだろうなと感じるからです。

でも、面白いことに、大変なお子さんほど、関わる大人は大人を登場させるのを嫌がったりします。「子どもにだけ会ってくれないか」と先生や保護者が言ってきたりします。

逆にすぐに「私も相談したかったんです」といらしてくれるご家庭のお子さんは、お子さん自身に1度もカウンセリングしなくても、「なんとなく」よくなってしまったりします。


子どものカウンセリングは言葉を駆使して心の中を語れないので、とても難しい作業になります。ただ一緒に遊んでいるように見えますが、そこで提供しているのは、絶対的な安全性であったり、発信したものが何らかの形で絶対に受け取られてしまう場であったりします。家庭でこの安全性が提供しきれていなかったり、大人が自分のことで精一杯で子どものサインまで受け止め切れていない状況だったりすると、ただ「遊んでいる」ように見えるその体験が、子どもの心に不思議な安堵感をもたらしていきます。


私はずっと「子どものカウンセリング」を追い求めて、目の前のカウンセリングや心理業務に関わってきましたが、いつしか大人の中にいる「子ども」と対話していると感じることが多くなりました。誰しもが幸せで問題のない子供時代を過ごしてきたわけではありません。むしろ、そんな理想は理想であって、現実にはなかなかないものです。

「生きている」ことそのものは、安心安全な体験と怖い不安でいっぱいの体験とを常に経験しているとも言えます。私たちは外で怖い思いをしたとき、心の中にある安全であった記憶を頼りに避難できるのだとも言えます。その行き来が自由にできるからこそ、得体のしれない外の世界にわくわくしたり、挑戦したり、恐る恐るでも期待を胸に踏み出してみたりできるのです。


その人の心の中にどんな記憶を持つ「子ども」がいるのか。

大人のカウンセリングでまず探していくのは、そんなことかも知れないなと感じています。

心の中にいる「子どもの私」を忘れていないか、置き去りにしていないか、いなかったかのように扱っていないか、その人自身が何よりも大事にしていないことがわかっていきます。大人が望む「子ども」については、とてもよくわかっていても、自分がどんな子どもだったか、意外とわかっていないことも多いものです。

大人のカウンセリングでは、言葉を使えるので、想像力を最大限に駆使して、その人の中の「子ども」の実態を読み解いていきます。

その作業は時に辛く悲しいこともありますが、そうした存在を見つけてもらうこと、ほっこりと包み込んでもらうこと、何を解決するわけでもないのに、それだけでほっと安心する瞬間が訪れます。


カウンセラーが見つけてくれると思いますか?

抱きしめてくれると思いますか?


カウンセラーは後ろから見守る役目です。

「ほら、今目の前に子どものあなたがいるよ」

「その子、ひとりでずっと寂しかったみたいだね。声かけてあげたら?」

「見つけてもらえて、恥ずかしそうだけど、嬉しそうだよね」

そんな言葉がけはしますが、本当にその子を見つけてあげて、抱きしめてあげて、自分の中に居場所を作ってあげるのは、ご本人です。


最初はなかなかうまくいきません。

どうしても、自分じゃなくて誰かに見つけてもらって抱っこしてもらいたい!と思うもの。

そうしてくれないカウンセラーに怒ったり、寂しく思ったり、この人じゃだめだわ…と見限ったり、必死に本人は気づかないふりをします。

でもね、その子がいつも必死で生きてきたこと、頑張ってきたこと、寂しくても耐えてきたこと、一番知っているのは御本人なのです。

その当人が気づかないふりをするんじゃ、誰が見つけてくれても、抱きしめてくれても、本当の寂しさは消えないものです。

ご自身が「子どもの私を見つけること」そんなお手伝いができるといいなと思って、

私は日々、大人のクライエントさんの中の「子ども」のカウンセリングをしているのだと、理解しています。


そんなこんなで今では、やっぱり「大人のカウンセリング」だなと思っているわけです。





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kasugaimidori

更新日:2023年8月30日

1学期も終盤のこの時期、登校しぶりが起こるお子さんが増えてくる時期でもあるので、「不登校とひきこもり」

このテーマで少し思うところを書いてみようと思います。

私のこれまでの経験から思うところですので、すべての人にあてはまる意見ではないことをご了承の上、お付き合いください。


まず、「不登校」とか「ひきこもり」という言葉は、学校に行かないという「状態」、自室や家にひきこもる「状態」を指す言葉であって、病名や診断名、呼称ではないということを確認しておく必要があります。そういう状態、そういう事象を指し示す言葉なので、当事者の背景、特性、抱えている問題等々に共通点を見つけることや、「不登校にはこう対応するべき」「ひきこもりの原因はこう」と語ることにあまり意味はないのです。だって”人それぞれ”ですから。。。


このブログに辿り着く人の中には、今まさにお子さんの不登校やひきこもり状態に困っていて、なんとか解決策はないか、「不登校専門」「ひきこもりエキスパート」みたいな治療者や治療機関の情報を求めている方もいるかも知れません。

確かに、いろんな家庭事情やお子さんの性格やパターンを知っているという点で、そうした「専門性」には価値があるでしょう。ただ気を付けたいのは、「どんなお子さんでもすぐに学校に行けるようにします!」「楽しい学校生活をお約束します!」みたいな謳い文句には警鐘を鳴らして欲しいのです。


まず「すぐに」は無理です。

がっかりしますか?そうですよね、がっかりです。本人もがっかりしています。

不登校と呼ばれたり、ひきこもりと呼ばれるには、その現象が表に出るまでに数か月から数年の下積み時代があり、さらに学校に行かない時間が続き、部屋や家にひきこもる時間が長くなり、登校しない・ひきこもる「状態」になるまでにもさらに数か月かかったのちに、周囲が「不登校」「ひきこもり」と呼ぶようになるわけです。

それが数回のカリスマカウンセラーの面接や熱血教師の声掛けや啓発セミナーへの参加で、変化するわけがないですよね。それくらいでなんとなるなら、そうした状態を表に出す必要もないですし。おそらく、その過程で不登校にもひきこもりの状態にならずにきている人もたくさんいます。


では、どうすればいいのでしょう?

実は、先ほどお話した【下積み】【表に出る】【状態になる】このどこにアプローチするかで関わる人や関わり方が違ってくるのだと思います。それぞれの段階へのアプローチを、関わる人がきちんとわかっていて関わっているかどうかがとても大事になってきます。どんなに熱心で良い人で腕のいい専門家でも、全部をごっちゃにして自分の領分を区別できずに関わると、歯車のかみ合わせがうまくいかず、こじれにこじれてしまうことになりかねません


大雑把な私の私感からすると、目に見えやすい順番に、【表に出る】ところでは先生、【状態になる】ところでスクールカウンセラー(SC)、【下積み】には心理士がその専門性を発揮しやすいだろうなとは思いますが、アプローチできるところは、職業特性よりもその関わる人の特性(得意・不得意、好き・嫌い)で選んだらいいと思っています。


ひきこもりの場合は、ひきこもり状態になってしまっていると接点がなくなってしまっているので、直接のアプローチが難しくなります。接点が家族であったり母親であったりするのであれば、その接点となってる人へのアプローチからしていくのが良いと思います。本人が問題なのに、母親が相談に行くのは、母親自身の育て方に問題があると言われているようで気が進まない…と思われる方もいるかもしれませんが、社会との窓口が母親しかない場合は、そこを飛び越えて御本人へのアプローチは不可能です。御家族の関わり方やお母様の思いをうかがうことから、関わる人の小さな変化を御本人が感じ取り、少しずつでも「動き始めるきっかけ」になりうるのです。


【表に出る】【状態になる】でほどよい関わりが功を奏すると、登校しぶりは不登校にならずにすみますが、それでも諸手を挙げて「終わった~」となるのは、危険です。今回の登校しぶりは、お子さんがしんどいと感じた時に出す「サイン」の方法だということを覚えていて欲しいのです。このことは親子で確認できるといいと思います。つい登校できるようになると、「登校しぶり」をなかったことのように扱ってしまったり、そうした過去に触れないように気を付けたりしてしまいますが、「自分はこういうことが起こった時に、こういうサインを出しやすい」という自分の癖みたいなをものとして確認しておきたいものです。そうすると、またしぶりが起きた時に、「以前こういう時にもしぶってたじゃない?今回も何か気になることがあるんじゃない?」みたいに、はれ物に触るがごとく様子をうかがうのではなく、ずばり聞けるようになります。しぶりが見られなくなっても、自分のウィークポイントのようなものがわかっていて、なんとかなった経験があると、弱さに触れられることも怖くなく受け入れられるようになります。こういう弱いところは「治さないと」と考えがちですが、「治す」というよりは、「対策をとる」ことを考えられるといいなと思います。「一緒に治そうよ」と言われるより、「一緒に対策を考えようか」と言われる方が、なんとかなりそうな気がしませんか?


長引く不登校やひきこもりには、やはり【下積み】についての精査が必要になってきます。この【下積み】に発達の問題があったり、身体的な問題があったり、性格傾向の問題があったり、親子ないしは家族問題があったりすると、なかなか負の連鎖から抜け出せないシステムができあがってしまっているかも知れないからです。たいていこのシステムは、単発であることは少なく、様々な事情が絡み合っていることが多いため、解きほぐしには時間が必要になってきます。

ここへのアプローチには、専門的な知識とスキルとそれにかける時間が必要になるので、心理士が関わるのがベストだと思います。この役割をSCが担う場合もありますが、SCの置かれた環境によって対応できる範囲に限界があるので、やはり心理療法や精神療法ができる環境での心理士との関わりが良いのではないかと思います。SCもそうした解きほぐしが必要だと思われる場合には、適切な機関での相談を勧めてくれるでしょう。


心理士がまず行う専門的作業としては、「アセスメント」になっていきます。先にお話したように、御本人の【下積み】要因としてどんな可能性があるのかを、面接や検査や受診によって見立てるのです。心理士と関わるからと言って、なんでもかんでも心理療法をすればいいものでもありません。適切な見立てをして、適切な手立てを考える。必要なら治療や療育を絡めたり、家族との面接や関係調整を話し合ったり、環境調整をしたり、対応は様々になります。【下積み】に手を入れることは、とても時間もかかりますし労力もかかりますが、小さな毛玉が絡まって大きなボールになってしまってるようなものですので、地道な作業によってならしていくことができます。そうした上で、毛玉ができやすい事象・状況・性格傾向を認識し、これも「対策をとる」ことを考えていくのです。


この作業はとても時間がかかり、永遠と終わらないような気がしてしまうかも知れません。でも、こうした作業はやはり学生の時が一番効率が良いと思っています。

まず、学生だからこそ、登校しぶりや不登校としてサインが出せますし、サインも見つけてもらいやすいのです。そして、学生には小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間という「区切り」が一般化されているので、子ども本人、家族、関わる先生や心理士にも暗黙の了解があり、目標設定にもなります。小学校で不登校になっている場合、「中学に行くまでには何とかしたい…」みたいなものが、プレッシャーにもなりえますが、目標にもなります。こうした区切りをうまく使って治療を進めることも可能です。


学生時代に不安定ながらもなんとか乗り切り、社会に出てから不調をきたすようになると、なかなかこの【下積み】に手を入れるような治療につながりにくくなります。それはサインに気づく周囲の人の存在が減りますし、働くという経済的な背景をもつ行為の中では、事情が様々に絡み合い、簡単に「治す」という方向にいきにくくなってしまうのです。そして、いざ治療を始めても、社会にはあまり「区切り」がありません。社会に出てからの区切りは、転職であったり、結婚であったり、子供ができたり、自分で決めていかないと決まらないものになるので、「区切り」をつけるにもある程度のエネルギーがないとできないのです。自分以外につけられる区切りがない分、社会に出てからの治療はますます終わりが見えにくくなる気がしてしまうのです。比べるものでもありませんが、学生時代に不調が出現し、いずれ【下積み】にテコ入れをするのであれば、”今のうち”と思って頂きたいなと思います。


私は社会に出てからのクライエントさんにお会いすることがとても多いです。

もちろん、このタイミングでカウンセリングに来ようと思えたことには、とても大事な意味がありますし、自分のケアを他人に任せるのではなく、自分で何とかしようと思えたということは素晴らしいことです。

クライエントさんたちの物語をうかがうと、学生時代にもそれなりのサインを出していることが多々あります。このサインが見逃されてしまったこと、サインがあっても対処できる術がなかったこと、そうした環境になかったこと、状況はいろいろですが、惜しかったなぁと思うことも多々あります。その時にケアできていれば…ここまでしんどくならなかったかも知れないのにとも思うのです。


不登校やひきこもりという現象に親御さんは打ちのめされてしまいますよね。

そのお気持ちは痛いほど伝わります。

そのお子さんの一生を見据えてみると、それほどのサインを出せた、お子さんの強さも誇れると思いませんか?

お子さん自身も自分が不登校やひきこもりになれば、家族が困り悲しむことも苦しめることになるのも重々承知です。

それ以上の苦しみや生きづらさがあると、声を張ってくれているのです。

今、このサインを出すことに意味があると思いませんか?

心の問題にとりかかるのに、遅すぎることはありません。

いつも「今が一番早い」のですから。


それから、親御さんが周囲に「頼る」ことができないと、お子さん自身も「頼る」ことができません。同じように、親御さん自身が御自分の問題に対峙しないのに、お子さんに「自分と向き合え」というのも無理な話です。

抱え込まずに頼る姿を見せることも、しんどいけれど、自分の問題と対峙する姿を見せることも、お子さんがひとりの「大人」として親御さんを認識し、「人を信じる」ことを覚えるきっかけにもなるのです。結果がうまくいくかいかないかよりも、この姿を見せることに意味があると思っています。


それぞれのタイミングでうまく専門家を使っていって欲しいと思います。

いつもまっすぐの道があるわけではないので、本当の支援にたどり着くには紆余曲折あるかもしれません。

いろいろ大変だったよね…、なかなか光が見えなくて辛かったよね、でも辿り着いたよね…そう話せるようになるといいなと思います。

まずは、最初のドアを叩いてみてください。




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東京カウンセリングオフィスつむぎ(中央区日本橋)

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