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ママになると、本当に自分の時間がなくなる!

これはある程度、わかっていたことでもありますが・・・

ママ業は1日中休みがありません。

気づいたら、全然、人としゃべってなかったかも!と思うことありませんか?

もちろん、赤ちゃんも人なんですが・・・

買い物で店員さんとか病院の受付さんとか、役所の方とかとやりとりもあるから、

確かに声は発してるけど・・・


そうじゃない!


ふと、「会話」をしていない自分にびっくりしませんか?

気づいてないママも多いかもしれません。

表面上の会話じゃなくて、ちゃんと心の中にあることを話している感じの「会話」

していますか?


お腹がすいた時みたいに、心は「ぐー」と鳴ってくれないから、

なんか、つらい!しんどい!さみしい!イライラする!なんて、

さりげなくしか表現してくれない。

それは、心がカラカラ💦状態のサインなんです。

心に余裕がないと、あたりまえにかわいい我が子を「かわいい」と思えない

そんなことも仕方ないですよね。


具体的にパパに不満がある、親に不満がある、子どもの発達に不安がある等々、

相談したい内容があれば、「相談先」を探すこともできますよね?

でも、そんなはっきりした「悩み事」があるわけではない。

この心カラカラ現象にはどうしたらいいんだろう?

そう思うこと、ありませんか?


そんな時に、駆け込めるママ会があるといいなぁとずっと思っていて、

でも、理想を言うと、


予約なんかせずにふらっと行きたいし、

いつ行っても誰かいるところがいいし、

かといって、面倒な人と関わりたくないし・・・

赤ちゃん連れて行ってもいいところがいいし、

なんなら子どもたちが遊べちゃうとさらに助かるし、

育児の悩みも話せたり、

アドバイスもらえたり、

ご近所情報ももらえたり、

「また30分かけて作った離乳食、投げられた~!」なんてLINEできる相手欲しいし、

ママじゃなきゃ寝ないって言われて、夜時間なくなったって愚痴る相手が欲しい、


あれもこれも・・・理想のママ会を考えてたら・・・

いつまでも、始められない💦


・・・


ということで、とりあえずできることから始めることにしました。

たくさんの人数は呼べないし(ママ5人くらいが限界)

お金もかかるし(2500円/回 一般的なママ会より高い!)

子どもたちは楽しめないかもしれない(ママの話を聞くのがメインだから)


でも・・・

少ない人数だからこそ、気後れせず話せるかも

うるさかったり、騒がしかったりで疲れないかも

有料だから、ひやかしだったり、荒らすような人も来ないかも


あと・・・

気になってるけど、行ってみる勇気はなかった

カウンセリングのお部屋っていうのも覗けます^^

高額のカウンセリングをいきなり・・・は躊躇するけど、

どんな人かは気になる、「カウンセラー」と話してみることもできます。

身近で遠い心理の世界がどんなものか…体験できます。


子育てで経験するあれこれを先輩ママ・同僚ママとああでもないこうでもないと話せるかもしれないし、

これから来るであろう子育てあるあるについても、耳をダンボにして聞いておくこともできるかも知れません。

ママ友との関係づくり、進学に関わるもやもや、

両親・義両親との関係、夫との関係、

仕事との両立、

毎日の献立!

ママには気にしないといけないことがたくさんです。

どれも「小さいこと」ではなく、大事なテーマなんです。

そうしたことを話したい。


そんな場所になればいいな…と思って、

特にコンセプトを決めずにやってみようと思っています。

集まったママたちで、作り上げてもらいたいなと思っているMOM Caféです。

少しでも気になったら、ぜひ参加してみて下さい。


お子さんが寝てしまって、家から出れない!

出かける準備も無理!

お子さんの体調不良…自分の体調不良の際は、

Zoomでオンライン参加してください。

声だけでもOKです。

お子さん寝ちゃったら、マットに寝かせておきましょう。

ベビーカーのまま部屋の中で寝かせてもOK。

ママさえ起きてればOKなので^^

お子さんの遊ぶものの御用意はないので、何かお気にいり持ってきてくださいね。

アレルギーの心配したくないので、食べ物は我慢して下さい。

水分補給はOKです。

赤ちゃんのミルク用のお湯は準備できます。

これからママになる妊婦さんも立派な「ママ」ですので、参加OKです。


ちゃんと、誰かと「つながっている」感覚を味わってください。


ママ業って、ひとりになる時間ないけど、孤独ですよね。

あなたはひとりじゃない、

お待ちしています。


詳細はこちらから →  Tsumugi MOM Café

お申し込みはこちら→  MOM Café Googleフォーム

お問い合わせはこちら→ main@office-tsumug.com


*お部屋の都合上、先着ママ5名になります。オンライン参加に制限はありません。

 5名以上になっていてお支払いが進めない場合は、メールにてご相談下さい。


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家事をめぐる夫婦の論争は昔から繰り広げられています。

「家事は女性がするもの」という固定観念が崩れ始めた平成・令和と時代を経て、昭和の子ども時代を生きてきた私からすると、ずいぶんと男性が家事に参加するようになったなぁと感じます。


それでも、妻側の夫への不満は消えません。

むしろ、「やってはくれるけど」「ありがたいとは思うけど」、何か釈然としない不満が積み重なっていくようです。

いっそのこと、全くやらない「昭和のお父さん」の方が、ママ友同士で不満も文句も言えてすっきりするくらいです。


夫側はどんな風に家事に参加しているでしょうか。

家事を細かく分類して分担を決める、家事をビジネスタスクと捉えるタイプ。

気づいた方が好きな時間にやればいい、一人暮らしに慣れている気ままタイプ。

好きな家事を好きな方が担当すればいい、家事を趣味と捉えているタイプ。


家事の参加の仕方も様々ですが、夫側の参加の仕方を聞いていると、妻側との根本的なずれに気づきます。

家事が「今すぐやらないといけないもの」ではなく、「後回しになってもいいもの」になっている点です。

家事が是非物になっていないという夫の感覚が、妻側とはどうしても相容れいないことになっているのです。

夫にとって、家事は生きることに直結する是非物になっていないのです。

むしろ、生活を快適にするための「オプション」であり、妻がそれをきちんとこなしてくれることは、「夫を大切にしてくれている」ことであり、夫がそれを「手伝う」ことは、「妻を大切にして、いたわっている」ことになるのです。


一方、妻の感覚としては、自分がやらなければ誰もやってくれるあてのない「最後の砦」的な役割を常に負わされています。

誰かを大切にしたい、誰かの生活を豊かにしたいという思いを感じる以前に、「今やらないといけない必須のもので、後回しにできないもの」という切迫したものなのです。


家事は「やらないといけない仕事」とは性質が違います。

仕事は、「とりあえず置いておくこと」ができるし、「〆切」があるので、その〆切に合わせて、計画的に実行するという調整が可能です。

家事は、1日の中ではその調整が可能なこともありますが、基本的には毎日毎日繰り返され、やらなければその結果が積みあがりますし(部屋が汚い、洗濯物が溜まる、洗い物が溜まるなど)、どんなにやっても成果は積みあががらず、翌日にはまた今すぐやらないといけないものに追われることになるのです。

まさに毎日「こなす」ものなのです。


家事を報酬制にしたり、成果制にしたり、いろいろ試してきた家庭も多いでしょうが、大前提のこの家事に対する「必須性」が違うので、夫はたくさんの家事をこなしていても、「手伝ってる」という感覚から抜け出せないし、妻は「どんなに夫が手伝ってくれても逃れられない責任」から解放されないのかもしれません。


家事の話なので、もっと身近な例をあげてみたいと思います。

例えば洗濯について、


【妻】

洗濯がたまってきたし、明日洗濯をしよう

→前日に洗濯機に洗濯物と洗剤を投入して予約設定

→朝仕上がってる洗濯を取り出し干す

→洗濯機の蓋を開けて湿気がこもらないようにする

→外出前に天気をチェック。外出していても、天気が急変しないかを気にする。もし外出先で雨が降ってきたら、在宅している人に連絡をして取り込んでもらうように依頼。

→帰宅後、洗濯を取り込み、たたむ。

→洗濯物を次に取り出しやすいように仕分けしてしまう。


【夫】

明日着ようと思っている服がなかったから、洗濯をしよう。

→洗濯機に洗濯物と洗剤を投入して洗濯する

→気づいたら、洗濯を取り出し干す

→帰宅後、取り込んでたたむ。雨に濡れてたら、洗い直し。


妻側の意識が連続的なのがわかるでしょうか?

明日の家事を増やさないために前日から日中まで家事に対しての意識が連続的なのです。

一方で夫側は、意識が家事をしている時に集中しています。

妻側からすると、洗濯をするなら、前日から計画して欲しいし、干したのなら取り込むところまで責任持って欲しいし、洗濯機の蓋も開けておいて欲しい、取り込むだけでなくたたんで閉まって欲しいわけです。

だから、素直に「やってくれてありがとう」と言いづらく、”感謝を演技しつつ、しりぬぐいをこっそりしないといけないなら、自分でやった方がいいな”と思ってしまうのです。


夫側は、せっかくやってあげたのに、満足するような御礼もないし、蓋を閉めておいたからと言ってすぐにカビが生えるわけでもないのに、小さいことで文句を言われる。

雨が降ったのは自分のせいじゃないのに、なんで洗濯を干してるって連絡をくれなかったのかと責められる。明日着るんだから、たたまなくてもしまわなくてもいいじゃないかと反論したくなるわけです。


もうひとつ、子どもの世話と家事は密接な関係があります。よく子どもの世話が大変で家事がこなせないとイライラする妻に、家事代行やベビーシッターを提案することがあります。もちろん、こうした外注ができるようになったのは、大きな進歩だと思います。

でも、実際に利用された方は感じることがあるかもしれませんが、こうした外注は、子どものお世話も家事もビジネスとして「単位」で考えるため、連続した家事の視点でのサービスが乗せづらいところがあります。

夫の家事参加の仕方と似ているので、結局利用しづらく利用を諦めるか割り切って単位として利用するか…になっているかと思います。

もちろん、仕事をしてくれる方が「連続」視点を持っていることは多いので、規約にはないちょっとした「心遣い」は夫よりも満足のいくサービスになるかも知れませんが。


妻側には、お腹に子どもを宿した時点から、デフォルトで「子どもの命を守る」というミッションが与えられています。これは子どもが自分とは別の個体となっても、変わることはありませんし、身から離れたことでますます目を離せない状態でこのミッションをこなさいといけないと感じます。

「子どもの命を守る」その前提として、「子どもの健康を維持する」ミッションと家事は密接に絡み合います。

自分ひとりなら、ちょっとほこりが溜まっても、物が床に落ちていても、ゴミが溜まっていても、洗濯物が溜まっても、お風呂の掃除ができていなくても、1日くらいご飯が菓子パン1個でも…死ぬ心配はありません。

でも、子どもがいると、小さければ小さいほど、どれも「死」に直結するわけです。

床に落ちたものは子どもの口に入る可能性がありますし、ほこりもゴミも手について舐めてしまうでしょう。ゴミも楽しんで口に入れてしまうかも知れないし、すぐに服は汚れるので、洗濯しないと着るものがなくなり、汚れも落ちなくなります。お風呂は毎日入らないと皮膚炎になるし、かぶれて掻いてバイキンが入ると熱を出したりします。子どもの胃は小さいので、こまめに食事が必要ですし、少しも待つことができません。

家事はより「今すぐ実行しなければいけないもの」になります。


そんな切迫した「命を守る」作業と家事はつながっているので、家事は「命を守る作業」になるわけです。

だから、気づいたらやればいいとか、得意な方がやればいいとか、好きな方がやればいいとか、置いておいてくれればやるとか、「最終的には誰かがやるだろう」という前提の感覚がある発言は、「私がやらないと誰もやらない。この子の健康や命が守られない」という切迫感のある妻の気持ちを追い詰めてしまいます。

「結局、命に関わる切迫した感覚を持ってはくれていない」と絶望してしまうのです。妻に怒るエネルギーがあるうちは、まだいいような気もしますが。


では、どうすればいいのでしょうか?

ここまで読んでいただいたのに申し訳ないのですが、このお話では、”こうすればいい”という答えを用意していません。

”相手がこういう流れでこう考えている”ということを"わかろうとする"こと、自分が”こう考えている”を前提を、いきさつや流れを含めて相手にわかるように丁寧に説明することが大事だと思っています。

このお互いに”相手の考えを理解しようとしていること”が、何かひとつの解決策を出すことよりも大事なことになるのです。

家事は毎日のことであり、終わりのない作業です。

1度こうすると決めても、生活パターンや働き方の変化、年齢によっても、あり方が変わっていきます。

ですから、答えは1つになり得ないのです。


自分とは違うけれど相手の考え方や捉え方を理解している、理解されていることが、先々をどうしていくかの前向きな展開が期待できます。

もっと言えば、最終的にお互いの考えを理解できることはないかもしれないです。

理屈ではわかっても、気持ちではわかりたくない部分もあるかもしれません。

それでも、「わかろうとする」気持ちがあることは、夫婦にとっての大事な支えになっていくでしょう。

結果的に、夫が完璧に家事がこなせるようになることもあるでしょうし、何をやっても連続性のない「点」の家事かもしれません。

でも、「ああ、こういう風に考えているのか」と理解がされていると、そこに「悪気」も「いじわる」も「思いやりが足りない」わけでもないことは伝わります。

妻が気になる「家事=暇な人がやる=下のものがやる」と思われているのではないかという疑いも、夫から「わかろう」とされていると感じると、そうではないことがわかります。


家事をめぐる夫婦の論争は、違う土俵にいることがわかっているのに、お互いに自分の土俵で相撲を取ろうとすることに似ています。お互い相手の土俵に行けば、負けてしまうことがわかっているし、その土俵に上がっても、自分の土俵に戻ってこないといけないことも分かっています。それなら、自分が行くのではなく、相手に上がってきて欲しいわけです。夫婦がこの土俵争いでにらみ合いをしていると、ふつふつと不満ばかりが募っていってしまうことになりかねません。

お互いの土俵がどこにあり、どんな広さでどんな高さで、どんな素材でできていて、どんな居心地の良さや悪さなのかを、知っていることが大事なのではないかと思うのです。


家事はとても流動的で不毛で生きるために絶対に大事なものでもあります。

連続性でとらえる必要もあるし、時に点で考えることも必要なのです。

どちらも適宜利用することで、その不毛さを乗り切れたり、意味を見い出したりできます。なんせ家事のやっかいなことは、「休むことができない」ことです。

そして、この家事が安定的に維持されている毎日が、人の心の居場所を作り上げていくのです。「毎日続けていくこと」を乗り切るには、責任感の強さもいい加減さも両方使い分けていく必要があるのです。妻の考え方も夫の考え方も使いわけていかないと、乗り切れないわけです。どちらかに決めるよりも、両方を使い分けていく方がうまくいくはずですよね…。でも、ふたりがその前提を理解しようとしていないと、うまく使い分けも協力もできないのです。


だから、まず妻が、夫が、どんな風に家事のことを捉えているのか、聞いてみて下さい、考えてみて下さい。

そこには、その人の生い立ちが関係しています。

どんな家庭で育ったかは、その人の「家事観」を決めていきます。

長い年月をかけて培った価値観なので、そこは確固としています。

変えられそうにないな…と絶望したり諦めたりするかもしれません。

でも、人ってきちんと自分の視点や価値観を理解されたり、理解したいと心を寄せてもらうと、相手にも理解を示せるようになります。


今までのことをお互いに理解したら、これからのふたりの家庭の価値観について、家事観について、初めて築き始めることができるのだと思います。

これまでの人生を否定せずに、それを参考にこれからのことを考える。


簡単なようで、けっこう難しいです。

いや、難しいようで、やることは簡単です^^


「ねえ、どう考えてるの?」・・・と聞いてみましょう。



*なるべく妻側・夫側それぞれに寄り添って書こうと思ましたが…女性側視点が強くなってしまっています…ね。ご容赦ください!

 
 
 

私はずっと「子どものカウンセリングをやりたい…」と希望していました。

私の心理学との出会いは発達心理学から始まっていますし、大学院に付属している相談室は教育学部の施設だったので、プレイセラピーができる状態でした。

それでも、実習の中で実際に子どもと関われる機会はなかなかなく、ずっと憧れ的なものだったような気がします。

子どもとカウンセリングしたいという思いは、できるだけ早期に関われば関わるほど、しんどさが複雑化していないだろう、早く絡まった糸をほぐせば、その後の長い人生が生き生きと過ごせるだろう…という単純な思いでした。

単純に、子どもは素直に反応してくれるというのもあります。


それでも、今よりも実習先や行けるアルバイト先に限りも出会いの機会も少ない時代。

子どもに関わる機会は少ないままでした。

個人的な事情から、ひとところにとどまって臨床の仕事をすることが難しかった私には、子どもに関わる仕事に就くのはとても難しいのが現状でした。


大学院を卒業するにあたって、指導教官にそうした希望を伝えたことがあります。

たぶん、そうした仕事にすぐに就けない現状のこともぼやいたと思います。

その時、先生は「子どもを扱うにはまず、大人を扱えることが大事」と教えてくれました。

その当時は、その意味を本当には理解できていなかったと思いますが、その言葉が支えになって、その時できる臨床をなんでもやっていた気がします。


臨床歴も20年を超えましたが、結局、子どものカウンセリング!と呼べる未来にはなりませんでした。

でも、今は子どもの臨床をやるのであれば、まず大人の臨床から!というのは骨身に感じています。結局、子どもに何らかのトラブル・不具合・身体化が出ていても、その子自身だけに関わっていても良くはなりませんし、良くなったとしても、また悪くなったり、別の症状や形で表現されるだけだったりします。

まずはその子自身を取り巻く「大人」から話を聞き、大人の方に子どもを支えていくだけの力があるかどうか、環境が崩れていないかどうか、関係性がこじれてしまっていないかどうかを丁寧に確認していくことが、最優先事項になります。

遠回りなようで、お子さん自身を元気にするには、周りから整えていかないといけないし、逆に周りを整えると、あっさりお子さんは良くなって自分の力で成長するようになります。


スクールカウンセラーをする機会が何度かありましたが、お子さんと関わると、私はすぐに「この子のお母さんに会いたいな~」と思います。もちろんお父さんでもおばあちゃんでもいいのですが、この子の傍にいる時間の長い「大人」に会いたいと思うのです。

この子がしんどくなる理由は、きっと大人の事情が絡まってるんだろうなと感じるからです。

でも、面白いことに、大変なお子さんほど、関わる大人は大人を登場させるのを嫌がったりします。「子どもにだけ会ってくれないか」と先生や保護者が言ってきたりします。

逆にすぐに「私も相談したかったんです」といらしてくれるご家庭のお子さんは、お子さん自身に1度もカウンセリングしなくても、「なんとなく」よくなってしまったりします。


子どものカウンセリングは言葉を駆使して心の中を語れないので、とても難しい作業になります。ただ一緒に遊んでいるように見えますが、そこで提供しているのは、絶対的な安全性であったり、発信したものが何らかの形で絶対に受け取られてしまう場であったりします。家庭でこの安全性が提供しきれていなかったり、大人が自分のことで精一杯で子どものサインまで受け止め切れていない状況だったりすると、ただ「遊んでいる」ように見えるその体験が、子どもの心に不思議な安堵感をもたらしていきます。


私はずっと「子どものカウンセリング」を追い求めて、目の前のカウンセリングや心理業務に関わってきましたが、いつしか大人の中にいる「子ども」と対話していると感じることが多くなりました。誰しもが幸せで問題のない子供時代を過ごしてきたわけではありません。むしろ、そんな理想は理想であって、現実にはなかなかないものです。

「生きている」ことそのものは、安心安全な体験と怖い不安でいっぱいの体験とを常に経験しているとも言えます。私たちは外で怖い思いをしたとき、心の中にある安全であった記憶を頼りに避難できるのだとも言えます。その行き来が自由にできるからこそ、得体のしれない外の世界にわくわくしたり、挑戦したり、恐る恐るでも期待を胸に踏み出してみたりできるのです。


その人の心の中にどんな記憶を持つ「子ども」がいるのか。

大人のカウンセリングでまず探していくのは、そんなことかも知れないなと感じています。

心の中にいる「子どもの私」を忘れていないか、置き去りにしていないか、いなかったかのように扱っていないか、その人自身が何よりも大事にしていないことがわかっていきます。大人が望む「子ども」については、とてもよくわかっていても、自分がどんな子どもだったか、意外とわかっていないことも多いものです。

大人のカウンセリングでは、言葉を使えるので、想像力を最大限に駆使して、その人の中の「子ども」の実態を読み解いていきます。

その作業は時に辛く悲しいこともありますが、そうした存在を見つけてもらうこと、ほっこりと包み込んでもらうこと、何を解決するわけでもないのに、それだけでほっと安心する瞬間が訪れます。


カウンセラーが見つけてくれると思いますか?

抱きしめてくれると思いますか?


カウンセラーは後ろから見守る役目です。

「ほら、今目の前に子どものあなたがいるよ」

「その子、ひとりでずっと寂しかったみたいだね。声かけてあげたら?」

「見つけてもらえて、恥ずかしそうだけど、嬉しそうだよね」

そんな言葉がけはしますが、本当にその子を見つけてあげて、抱きしめてあげて、自分の中に居場所を作ってあげるのは、ご本人です。


最初はなかなかうまくいきません。

どうしても、自分じゃなくて誰かに見つけてもらって抱っこしてもらいたい!と思うもの。

そうしてくれないカウンセラーに怒ったり、寂しく思ったり、この人じゃだめだわ…と見限ったり、必死に本人は気づかないふりをします。

でもね、その子がいつも必死で生きてきたこと、頑張ってきたこと、寂しくても耐えてきたこと、一番知っているのは御本人なのです。

その当人が気づかないふりをするんじゃ、誰が見つけてくれても、抱きしめてくれても、本当の寂しさは消えないものです。

ご自身が「子どもの私を見つけること」そんなお手伝いができるといいなと思って、

私は日々、大人のクライエントさんの中の「子ども」のカウンセリングをしているのだと、理解しています。


そんなこんなで今では、やっぱり「大人のカウンセリング」だなと思っているわけです。





 
 
 

東京カウンセリングオフィスつむぎ(中央区日本橋)

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