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夫婦の家事論争

家事をめぐる夫婦の論争は昔から繰り広げられています。

「家事は女性がするもの」という固定観念が崩れ始めた平成・令和と時代を経て、昭和の子ども時代を生きてきた私からすると、ずいぶんと男性が家事に参加するようになったなぁと感じます。


それでも、妻側の夫への不満は消えません。

むしろ、「やってはくれるけど」「ありがたいとは思うけど」、何か釈然としない不満が積み重なっていくようです。

いっそのこと、全くやらない「昭和のお父さん」の方が、ママ友同士で不満も文句も言えてすっきりするくらいです。


夫側はどんな風に家事に参加しているでしょうか。

家事を細かく分類して分担を決める、家事をビジネスタスクと捉えるタイプ。

気づいた方が好きな時間にやればいい、一人暮らしに慣れている気ままタイプ。

好きな家事を好きな方が担当すればいい、家事を趣味と捉えているタイプ。


家事の参加の仕方も様々ですが、夫側の参加の仕方を聞いていると、妻側との根本的なずれに気づきます。

家事が「今すぐやらないといけないもの」ではなく、「後回しになってもいいもの」になっている点です。

家事が是非物になっていないという夫の感覚が、妻側とはどうしても相容れいないことになっているのです。

夫にとって、家事は生きることに直結する是非物になっていないのです。

むしろ、生活を快適にするための「オプション」であり、妻がそれをきちんとこなしてくれることは、「夫を大切にしてくれている」ことであり、夫がそれを「手伝う」ことは、「妻を大切にして、いたわっている」ことになるのです。


一方、妻の感覚としては、自分がやらなければ誰もやってくれるあてのない「最後の砦」的な役割を常に負わされています。

誰かを大切にしたい、誰かの生活を豊かにしたいという思いを感じる以前に、「今やらないといけない必須のもので、後回しにできないもの」という切迫したものなのです。


家事は「やらないといけない仕事」とは性質が違います。

仕事は、「とりあえず置いておくこと」ができるし、「〆切」があるので、その〆切に合わせて、計画的に実行するという調整が可能です。

家事は、1日の中ではその調整が可能なこともありますが、基本的には毎日毎日繰り返され、やらなければその結果が積みあがりますし(部屋が汚い、洗濯物が溜まる、洗い物が溜まるなど)、どんなにやっても成果は積みあががらず、翌日にはまた今すぐやらないといけないものに追われることになるのです。

まさに毎日「こなす」ものなのです。


家事を報酬制にしたり、成果制にしたり、いろいろ試してきた家庭も多いでしょうが、大前提のこの家事に対する「必須性」が違うので、夫はたくさんの家事をこなしていても、「手伝ってる」という感覚から抜け出せないし、妻は「どんなに夫が手伝ってくれても逃れられない責任」から解放されないのかもしれません。


家事の話なので、もっと身近な例をあげてみたいと思います。

例えば洗濯について、


【妻】

洗濯がたまってきたし、明日洗濯をしよう

→前日に洗濯機に洗濯物と洗剤を投入して予約設定

→朝仕上がってる洗濯を取り出し干す

→洗濯機の蓋を開けて湿気がこもらないようにする

→外出前に天気をチェック。外出していても、天気が急変しないかを気にする。もし外出先で雨が降ってきたら、在宅している人に連絡をして取り込んでもらうように依頼。

→帰宅後、洗濯を取り込み、たたむ。

→洗濯物を次に取り出しやすいように仕分けしてしまう。


【夫】

明日着ようと思っている服がなかったから、洗濯をしよう。

→洗濯機に洗濯物と洗剤を投入して洗濯する

→気づいたら、洗濯を取り出し干す

→帰宅後、取り込んでたたむ。雨に濡れてたら、洗い直し。


妻側の意識が連続的なのがわかるでしょうか?

明日の家事を増やさないために前日から日中まで家事に対しての意識が連続的なのです。

一方で夫側は、意識が家事をしている時に集中しています。

妻側からすると、洗濯をするなら、前日から計画して欲しいし、干したのなら取り込むところまで責任持って欲しいし、洗濯機の蓋も開けておいて欲しい、取り込むだけでなくたたんで閉まって欲しいわけです。

だから、素直に「やってくれてありがとう」と言いづらく、”感謝を演技しつつ、しりぬぐいをこっそりしないといけないなら、自分でやった方がいいな”と思ってしまうのです。


夫側は、せっかくやってあげたのに、満足するような御礼もないし、蓋を閉めておいたからと言ってすぐにカビが生えるわけでもないのに、小さいことで文句を言われる。

雨が降ったのは自分のせいじゃないのに、なんで洗濯を干してるって連絡をくれなかったのかと責められる。明日着るんだから、たたまなくてもしまわなくてもいいじゃないかと反論したくなるわけです。


もうひとつ、子どもの世話と家事は密接な関係があります。よく子どもの世話が大変で家事がこなせないとイライラする妻に、家事代行やベビーシッターを提案することがあります。もちろん、こうした外注ができるようになったのは、大きな進歩だと思います。

でも、実際に利用された方は感じることがあるかもしれませんが、こうした外注は、子どものお世話も家事もビジネスとして「単位」で考えるため、連続した家事の視点でのサービスが乗せづらいところがあります。

夫の家事参加の仕方と似ているので、結局利用しづらく利用を諦めるか割り切って単位として利用するか…になっているかと思います。

もちろん、仕事をしてくれる方が「連続」視点を持っていることは多いので、規約にはないちょっとした「心遣い」は夫よりも満足のいくサービスになるかも知れませんが。


妻側には、お腹に子どもを宿した時点から、デフォルトで「子どもの命を守る」というミッションが与えられています。これは子どもが自分とは別の個体となっても、変わることはありませんし、身から離れたことでますます目を離せない状態でこのミッションをこなさいといけないと感じます。

「子どもの命を守る」その前提として、「子どもの健康を維持する」ミッションと家事は密接に絡み合います。

自分ひとりなら、ちょっとほこりが溜まっても、物が床に落ちていても、ゴミが溜まっていても、洗濯物が溜まっても、お風呂の掃除ができていなくても、1日くらいご飯が菓子パン1個でも…死ぬ心配はありません。

でも、子どもがいると、小さければ小さいほど、どれも「死」に直結するわけです。

床に落ちたものは子どもの口に入る可能性がありますし、ほこりもゴミも手について舐めてしまうでしょう。ゴミも楽しんで口に入れてしまうかも知れないし、すぐに服は汚れるので、洗濯しないと着るものがなくなり、汚れも落ちなくなります。お風呂は毎日入らないと皮膚炎になるし、かぶれて掻いてバイキンが入ると熱を出したりします。子どもの胃は小さいので、こまめに食事が必要ですし、少しも待つことができません。

家事はより「今すぐ実行しなければいけないもの」になります。


そんな切迫した「命を守る」作業と家事はつながっているので、家事は「命を守る作業」になるわけです。

だから、気づいたらやればいいとか、得意な方がやればいいとか、好きな方がやればいいとか、置いておいてくれればやるとか、「最終的には誰かがやるだろう」という前提の感覚がある発言は、「私がやらないと誰もやらない。この子の健康や命が守られない」という切迫感のある妻の気持ちを追い詰めてしまいます。

「結局、命に関わる切迫した感覚を持ってはくれていない」と絶望してしまうのです。妻に怒るエネルギーがあるうちは、まだいいような気もしますが。


では、どうすればいいのでしょうか?

ここまで読んでいただいたのに申し訳ないのですが、このお話では、”こうすればいい”という答えを用意していません。

”相手がこういう流れでこう考えている”ということを"わかろうとする"こと、自分が”こう考えている”を前提を、いきさつや流れを含めて相手にわかるように丁寧に説明することが大事だと思っています。

このお互いに”相手の考えを理解しようとしていること”が、何かひとつの解決策を出すことよりも大事なことになるのです。

家事は毎日のことであり、終わりのない作業です。

1度こうすると決めても、生活パターンや働き方の変化、年齢によっても、あり方が変わっていきます。

ですから、答えは1つになり得ないのです。


自分とは違うけれど相手の考え方や捉え方を理解している、理解されていることが、先々をどうしていくかの前向きな展開が期待できます。

もっと言えば、最終的にお互いの考えを理解できることはないかもしれないです。

理屈ではわかっても、気持ちではわかりたくない部分もあるかもしれません。

それでも、「わかろうとする」気持ちがあることは、夫婦にとっての大事な支えになっていくでしょう。

結果的に、夫が完璧に家事がこなせるようになることもあるでしょうし、何をやっても連続性のない「点」の家事かもしれません。

でも、「ああ、こういう風に考えているのか」と理解がされていると、そこに「悪気」も「いじわる」も「思いやりが足りない」わけでもないことは伝わります。

妻が気になる「家事=暇な人がやる=下のものがやる」と思われているのではないかという疑いも、夫から「わかろう」とされていると感じると、そうではないことがわかります。


家事をめぐる夫婦の論争は、違う土俵にいることがわかっているのに、お互いに自分の土俵で相撲を取ろうとすることに似ています。お互い相手の土俵に行けば、負けてしまうことがわかっているし、その土俵に上がっても、自分の土俵に戻ってこないといけないことも分かっています。それなら、自分が行くのではなく、相手に上がってきて欲しいわけです。夫婦がこの土俵争いでにらみ合いをしていると、ふつふつと不満ばかりが募っていってしまうことになりかねません。

お互いの土俵がどこにあり、どんな広さでどんな高さで、どんな素材でできていて、どんな居心地の良さや悪さなのかを、知っていることが大事なのではないかと思うのです。


家事はとても流動的で不毛で生きるために絶対に大事なものでもあります。

連続性でとらえる必要もあるし、時に点で考えることも必要なのです。

どちらも適宜利用することで、その不毛さを乗り切れたり、意味を見い出したりできます。なんせ家事のやっかいなことは、「休むことができない」ことです。

そして、この家事が安定的に維持されている毎日が、人の心の居場所を作り上げていくのです。「毎日続けていくこと」を乗り切るには、責任感の強さもいい加減さも両方使い分けていく必要があるのです。妻の考え方も夫の考え方も使いわけていかないと、乗り切れないわけです。どちらかに決めるよりも、両方を使い分けていく方がうまくいくはずですよね…。でも、ふたりがその前提を理解しようとしていないと、うまく使い分けも協力もできないのです。


だから、まず妻が、夫が、どんな風に家事のことを捉えているのか、聞いてみて下さい、考えてみて下さい。

そこには、その人の生い立ちが関係しています。

どんな家庭で育ったかは、その人の「家事観」を決めていきます。

長い年月をかけて培った価値観なので、そこは確固としています。

変えられそうにないな…と絶望したり諦めたりするかもしれません。

でも、人ってきちんと自分の視点や価値観を理解されたり、理解したいと心を寄せてもらうと、相手にも理解を示せるようになります。


今までのことをお互いに理解したら、これからのふたりの家庭の価値観について、家事観について、初めて築き始めることができるのだと思います。

これまでの人生を否定せずに、それを参考にこれからのことを考える。


簡単なようで、けっこう難しいです。

いや、難しいようで、やることは簡単です^^


「ねえ、どう考えてるの?」・・・と聞いてみましょう。



*なるべく妻側・夫側それぞれに寄り添って書こうと思ましたが…女性側視点が強くなってしまっています…ね。ご容赦ください!

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